Isamu's Blog『Reboot』

【 雑記ブログ 】

仏教について

2021年3月14日に更新しています。

f:id:futurecre8:20190923144204j:plain

 

宗教についての考え方

既存の宗教において、その指し示す拠りどころは同じかと考えます。

釈迦とイエスはその代表的な方々です。

釈迦については様々な呼び方があるのですが、釈迦についてもイエスについても、かつては人間であったということが前提です。

人間釈迦(ゴーダマ・シッダールタ)、イエス(イエス・キリスト)が伝えたかったことは何なのか。

そのことをきちんとふまえる必要があります。

 

私の家は、父方が浄土真宗で母方が神道です。

私は現在どちらにも帰依していないというわけでは無く、仏道に真実があると導かれ、仏道を思想・哲学としてとらえております。

 

仏壇に拝むときは「南無阿弥陀仏」です。

「南無」とは、「帰依する」という意味です。

「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏に帰依します」という意味なのです。

 

私自身は識の導きや教えがあり、それを自分の頭で思考し、そして自らの意思で選択・決断・行動することが大切だと考えております。

 

弥勒菩薩(みろくぼさつ)

2019年9月4日に、マイトレーヤという言葉が降りてきました。

私は宗教に関心がなく、病気になり言葉が降りてくるまでは「宗教なんて・・・」と思っていたクチです。

「ん?マイトレーヤ?オウム真理教の子供になんかそういうホーリーネームがついていたな・・・。」という程度の認識です。

何か、マイトレーヤと考えるといやな気分になりました。

マイトレーヤとは、調べてみると「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」のことでした。

弥勒菩薩とは、菩薩、つまり悟りを目指して修行中の衆生(修行者)ということです。

釈迦が入滅後56憶7千万年後の未来に、この世界に現れ悟りを開き、人々を救済する未来仏とのことです。

オウム真理教との関連、つまりトリガー・アンカーを解くのに苦労しました。

脱洗脳でのアンカー外しです。

これは大変な困難が伴います。

マイトレーヤを想起するとどうしてもオウム真理教が出てきます。

そうこうしているうちに、「お前は上祐史浩に勝てるのか」といったことまで降りてきました。

もちろん、勝てるわけがありません。

IQの上でも、ディベートにおいても。

しかし、彼の場合は薬物による神秘体験ですが私の場合はそのようなものでなく、病気に起因するところも大きいでしょうが神秘体験は幾度となくしています。

自然にです。

不可知なものがあるということに関しては、彼よりも実感として上回ると思います。

その上で、神々について言いたいことがあるので、このブログを書いています。

 

余談ですが、ウルトラマンは弥勒菩薩をモデルにしています。

幼少の頃、ヒーローだったウルトラマンタロウに助けを求めたかった私にとって、弥勒菩薩とは少なくとも心に留めておくべき菩薩となりました。

 

弥勒菩薩とは、悟りを得て今を生きている実存だと考えます。

そして、何度も悟りを経験して、真の悟りへと辿り着くために生き抜く人だと思います。

 

手塚治虫著「ブッダ」

マイトレーヤという言葉が降りてきたことがあってから、人間お釈迦様についてもっとよく知りたくなりました。

釈迦は結婚したのか、子供はいたのか、悟った後何を求め、何をしたのか。

そして、手塚治虫の「ブッダ」を全巻電子書籍で読みました。

途中何度も号泣して、前7巻数日の時間がかかりました。

号泣してしまったのは、自然と涙があふれ出たのです。

私だけの感情ではありません。

スジャータから乳粥をもらったところや、ブラフマンからの助言のところなどです。

全部で5、6ヶ所あったでしょうか。

私自身が泣くという感じではなく、コネクトした他の識とともに泣くという感じです。

手塚治虫先生によるフィクションが多い作品とは言え、私にとってはブラックジャックを超える作品となりました。

 

宗教と恐怖

宗教は、組織です。

さらに、その宗教の神を信じなければ罰がくだる、戒律を守らなければ罰がくだるなど、恐怖の感情とセットになっています。

そのようなものが、人を救うのでしょうか。

救いを求めるすべての人を救済するのが宗教の本質であり、その本質からは大きく外れています。

 

真に利他的な活動をするのであれば組織を編成する必要はなく、組織であるがゆえに自分たちの身勝手な活動やお金を多分に踏んだくってやろう、あるいは他者を落としめてやろうなどという堕落した活動が散見されます。

宗教家は、利他的になるべくその辺りをもう一度顧みる必要があるのではないでしょうか。

 

仏教について

仏教については、他の宗教の開祖と違い、釈迦は争うことなく亡くなっています。

キリスト教は、全世界の相当数の割合を占めています。

イエスの伝えたかったことは、無償の愛、隣人愛です。

見返りを求めずに与える、敵になる人も愛す。

この精神があれば、対立など起きないはずなのに。

後の新約聖書から始まる、弟子たちの責任でしょう。

キリスト教はイエスが聖書を作ったわけでもなく、後の弟子たちの思惑や改ざんも含め、聖書を規範にすることによる弊害が多いように思われます。

その解釈も教派によって様々です。

同性愛などの戒律や、教派、他宗教との争いは、イエス自身が望んだ事ではないと考えます。

 

仏教も釈迦が経典を残したわけではありません。

私が仏道にコミットするのは、その体験に裏打ちされるところが大きいです。

宗教自体を胡散臭く感じていた私が、梵天という言葉に始まり様々な仏教用語にさらされるようになり、またさまざまな意識がコネクトすることにより、実感として仏道思想の素晴らしさを体感したからです。

悟りの境地のような状況を楽しんだりも出来ました。

 

仏教とキリスト教を超える

まだまだ勉強が足りませんが、仏教はとても奥が深いです。

さらに世界を席巻するキリスト教と、仏教の良いところ、その他様々な宗教を参考にしながら、すべての人類の救いになる思想を構築して、みんなで共通理念を創っていくのが我々人類に課せられた使命だと考えています。

私自身は、これからも研鑽を積んでいきたいと思います。

 

釈迦の悟り

釈迦の悟った内容とは、上座部仏教では「縁起」、大乗仏教では「空」と定義されています。

仏教は、空観、中観、仮観とカテゴライズされますが、何派という学問的な体系でなく、悟りとは苫米地英人氏が言うように「釈迦派」であるべきであり、それは言葉を超えた体感的、感覚的なものであろうかと思います。

こういうことが実感として感じられるには、やはり悟りの境地を体感するより他にないと考えています。

それは、厳しい修行や勉学によってもたらされるものではありません。

少なくとも私はそんなことはしていません。

しかし、そういう道を志す方もいらっしゃるかと思います。

 

私の場合は、夢や病気に起因するところも大きいように思われます。

それが悟りなのかと言われれば、私は真の悟りとは思いませんが、悟りを積み重ねることにより真の悟りを得る。

そして、その方法は神々の意思に委ねると同時に、毎日を真剣に生きていく姿勢が必要です。

 

毎日を真剣に生きるということ。

そして、感謝するということ。

 

大切なことかと思います。

 

でも、そればかりでは生き急いで時間に追われる。

感謝ばかりでも気を使って疲れる。

 

仏道は、少し悲観的な側面も大きいと思います。

 

不安と恐怖を予測して、悲観する考えは、最悪の事態に備えるという意味で重要ではあります。

 

そればかりでは楽しくないし、喜べないこころになってしまいます。

 

疲れたときは休めば良いし、遊びたいときは遊ぶ。

悲観ばかりでなく、楽観的な視点も必要かと思います。

 

いずれ、人間は誰しもが悟ることができると思います。

それは、みんなが信じあえて、みんなが安心して幸せになる世界です。

 

神々と意識

神は意識を持った存在なのか。

少なくとも、1つの意識とは思えません。

それは、これまでの経験から悪に傾いた意識もあるように思います。

そのような力のあるものは、悪と呼ぶべきでしょう。

この世の中の不条理は、予測不能な側面もあります。

しかし、備えていても不条理に見舞われることもあります。

十分に備えつつ、悪の声には、決して耳を傾けないことです。

それでもどうにもならないときは、楽観的に、前向きになるように努めることが大切です。

そうすれば、時間が解決してくれることが多いと思います。

 

一方で、必要悪というものがあります。

悪ととらえられるものが善に働くという視点です。

これは程度問題と言えますね。

 

釈迦は梵天勧請において、梵天(ブラフマン)から人々に教えを説くように勧められ、そして初転法輪を行います。

従って釈迦にとっての神の1つが梵天であることは間違いないのですが、不可知なものゆえにあるともないとも言っていません。

思慮深い釈迦は不可知論者です。

 

私たち人間の1人1人から、宇宙のすべて、そして宇宙の外までを把握する識。

アカシックというすべてが詰まった情報と個識の集まり。

 

 

しかし、何かとつながる経験をしている身としては意識の全面解明によって、何らかの進展があるのかもしれないと考えています。 

 

シンクロニシティとバタフライエフェクト

縁起とは「すべてのものは関係性によって成り立っている」ということです。

それを実感するのが、シンクロニシティです。

シンクロニシティとは共時性と訳されますが、偶然の合致や虫の知らせのようなものです。

そのような場面に出くわすと、縁起を強く感じます。

 

また、一挙手一投足が何かに影響を及ぼすということ。

これがバタフライエフェクトです。

想念の上でですが、病気の急性期のときにこの事による強迫観念で身動きが取れなくなってしまった経験があります。

私にとっては、バタフライエフェクトも経験に基づく事実です。

しかし、身動きが取れなくなっても困りますよね。

自分本位の身勝手な行動をしないということが、大切です。

 

輪廻と転生

輪廻については、私は何度となく夢の中で死んでいます。

そして、人間は死ぬとき何に生まれ変わるのかを知ることになる、といった夢も見ました。

輪廻が本当にあるのかはわかりません。

それは神々の存在、死後の世界と同じく、不可知なものです。

証明のしようがありません。

現在の私は輪廻があるとの確信は持てませんが、あまりに辛い事が多すぎたので解脱することだけを望んでいます。

解脱の解釈は様々ですが、私は無になって夢も見ずに眠っていたい。

 

浄土真宗

浄土真宗は、肉食妻帯(にくじきさいたい)を認めています。

これは、親鸞聖人が周囲の批判に遭いながらもたどり着いた結論です。

人間が人間らしく生きる、そういう当たり前の事を説いているので、世の中の人に受け入れられて日本でも沢山の信者を獲得しています。

涅槃に至る前の浄土を設定したことにより、普通に生活している中で救いの道を指し示しました。

 

東条英機も、死刑執行の前には浄土真宗に救われたということです。

 

私自身は、病気がひどいときに仏壇に拝んだり、足を向けないようにして救いを求めましたが、病気はひどくなるばかりでした。

様々な経験により、神々についてはわかるような気がしています。

 

空海

空海については密教と即身成仏の人ですが、そのパワーはなかなか凄いものがあると考えています。

様々なものを踏まえたうえで密教という体系を確立したこと、そしてその力、言葉を超越したパワーというものを感じています。

真言宗の本尊は大日如来です。

阿弥陀如来と大日如来、どちらが凄いのか。

私にはよくわかりません。

空海と密教のパワーを感じてはいるのですが、そういったところでも宗派によっての違いがあるのでしょうか。

 

天台智顗

天台智顗(てんだいちぎ)は、中国の天台宗の高祖です。

摩訶止観をまとめた天才です。

「聞思」(もんし)、ありのままの自分と向き合うと同義かと考えます。

この人の名も、降りてきたことがあるので記しておきます。

 

コネクトするという感覚

これは別の意識とつながるという感覚なのですが、その前にコンタクトという予兆というか前ぶれがあります。

言葉が降りてくる、その人物がイメージとして浮かぶといったものです。

そしてコネクトすると、自分の中にその人格が合わさったような状況となり、体の感覚さえ変わってきます。

腕が軽くなるといったことや、時には勝手に体が動くということもあります。

皮膚感覚、味覚、嗅覚、感情などが自分のものとは変わります。

 

私の病気の症状とも関係が深いかと思います。

 

利他的であるということ

仏教に精通した人は、非常に利他的です。

なぜなら、縁起を理解しているからです。

 

苫米地英人氏は、自身が得た知識を惜しげもなく他の人に与えます。

少しお金に執着があるように見えますが、彼は経営者でもあるので少しお金を稼ごうとする部分は見えます。

しかし、基本はとても利他的な人物です。

彼が世の中に広めている知識は、多数の人の幸せにつながっているので素晴らしいことだと思います。

 

いとうせいこう氏は、国境なき医師団へのサポートが挙げられます。

他にも様々な分野に精通し、人の為に動いています。

 

自らの利益、他の利益、どちらも大事です。

他の利益を優先しろということではありません。

他の利益は、自らの利益にもなるのです。

 

真に利他的な人は、苦しい人生を歩むことも多いかと思います。

自分はどうでも良いから、ほかの人の幸せを望むといった姿勢です。

 

利他はとても大切な視点です。

みんながそれを共通理念として守れば、みんなが信じあえて幸せになるかと思うのです。

しかし、利他ばかりにとらわれずに、苦しみから逃れるために自利も考えましょう。 

 

あなたは見守られている

一番言いたかったこと。

それは、呼吸の吸う、吐くから、今何を思ったか、考えたかという1つ1つをすべて把握している不可知なものがあるということです(あえて存在とは書きません)。

それが神々なのか、集合的無意識なのか、別の人間の意識なのか、地球外生命体によるものなのか、個識なのか、アカシックなのか・・・。

まだ私にはわかりませんが、これは私が実体験として経験し、確信していることです。

 

ミッシェル・フーコーのパノプティコンの監視社会のようで、少し嫌な気分になりますが、とにかくそういうものがあるということです。

 

その上で、どのように意思を示し、選択・決断・行動して生きていくのか。

 

善と悪。

善悪2元論では無いと私は信じています。

 

私自身は、そのような状態でもひとりエッチもしますし、肉食もします。

人間として自然な行いだからです。

それは、必要悪と言えるかもしれません。 

 

善と悪の問題は悩ましい問題であり、この世の不条理や必要悪にはいつも考えさせられます。

しかし、絶望することなく、希望を持って最後の日まで生き抜きたいと思います。

 

それが、私のココロです。

 

【 2021.3.14加筆訂正 】